モリー先生

モリー先生の最終講義』を読んだ。映画『モリー先生との火曜日』をの原作のひとつだ。同名の原作『モリー先生との火曜日』はその教え子ミッチ側から書かれた本だ。

テーマは人生、生と死についてだ。

私たちは「人は死ぬ」ことを知ってはいるが、必ずしも納得しているわけでも、信じているわけでもない。

文中には、「いかに死ぬかを学べば、いかに生きるかがわかる。」とあった。人生を本当の意味で真剣に生きるとはどういうことか、いろいろな示唆があったように思う。

ノイズキャンセリング

飛行機や新幹線など長距離移動のときはSONYノイズキャンセリングのイヤホンを使う。MDR-NC300Dという昔のモデルだけれど未だに愛用している。

特に機内のゴォーッという音は、10分やそこいらならいいが、何時間も聞いていると地味に辛いし疲れる。それがこのイヤフォンで、コー・・・くらいに抑えられるのだ。

乗るのはスカイマークの格安席だが、このイヤホンを付けてバッハを聞く。ポメラでカタカタ書いていると、ホットコーヒーにキットカットが出てきたりして、かなり快適な空の移動になる。

仕事などでよく飛行機に乗る人はぜひ試してほしいノイズキャンセリング。個人的にはヘッドホンタイプよりイヤホンタイプの方がおすすめ。

密閉が必要だけど側圧強いのはそれはそれで辛いし、眠ったりするのに大きいとジャマになるしね。

BOSEのQCシリーズも性能よさそうだけど、乾電池式じゃないし、すぐ断線しそうな作りをしていて未だに手を出せないでいる。

所要時間を予想する

やることが多いときは、やることリストに書き出していてるが、これらすべてに自分の予想した所要時間も書き込んでみた。

所要時間を書き込むと、実現可能なのか目処がつく感じがするし、今日一日の残り時間に対するちょうどよい緊張感が出るように感じた。

それに自分が予想した時間より早く仕上げられたときはちょっとした達成感を味わえる。

できなかった項目が残ったときも、どうすれば達成できただろうかと考えやすい。

次回からは、時間を書き込むことにする。

それをやるための必要環境についても書いた方がいいのかな、さすがにやりすぎかな・・・。

怖っ・・・

昨晩の要望をメールで送ったところ、昨晩の発信は特に用件はなかったとの返信がきた。ごめん、とも書いてあったので要望も了解してもらえたと解釈した。

しかし、その1時間後また夜間の一方的電話がかかってきた。その後意味不明のメールも送られてきた。

怖すぎ。激しすぎる。そこまでして話を聞かせたいか、愚痴を垂れ流したいかとゾッとした。はけ口を求めるこの強引さ、私の心の警報が鳴り響いた。

昔の私は、よく考えもせずにこれに対応し、消耗し虚脱状態になったものだ。警報機も壊れていた。

だけど今の私は違う。私は、私を守る。相手は、自分の心の子守りをできない人なのだ。

ヴァンパイアと名付けて警戒することにする。

営業時間外

夜中に前触れもなく電話をかけてくる、というか話し相手を求めてくる人がいる。

正直うんざりする。でも、無視はしないのが自分のポリシーだ。どうしたものか、リアクションのポイントを考えてみる。

着信を受けたことをうやむやにしない。

着信に即時応じる義務はない相手。とれなくてもOK。

サービスをしないこと。

それを踏まえて明日メールすることにする。

まず、着信を受けたことを明記する(とれなかったことの謝罪はしない)。その上で急用でなければメールでお願いしたい、とだけシンプルに伝えることにする。

中華パッドの修理

ipadの修理に成功したのに気を良くして、もう一つ。

ジャンク品の中華パッドを修理を中古で買って開腹してみた。

パッケージデザインは、もう気持ちがいいぐらいにipadのパクリだった。外装はipadのケースに比べてかなりちゃちでミンティアのケースみたい。中身も 機能すれば問題なかろうとばかりにテキトーな感じで、配線はぐちゃぐちゃでメイン基盤の固定ねじはいくつか無いし、両面テープは剥離紙をとってなかったり・・・。

まだ替えのデジタイザーが届いてないから何とも言えないけれど、この中華バッドのが軽いし、拡張性あるし、ルート化してあるし、なんか修理完了後はこっちを使いそうな気がする。

めちゃくちゃチープだけど・・・いいじゃん。

通知やらパスワードやらアプデやら広告やらうるさいipadよりよほど静かだ(笑)。

満足をしない人

どうやったって満足しない人は、いる。

自分が何に対して満足していて、どこに不満があって、それらをどう受け止めているのかを語るのではなく、ただただ不満だけを語る人。

そういう人を満足させようとして心を砕くことは危険だ。

どんなに満足させようとしても、無理なことが多いし、たとえ一時的に満足させることができたとしても、それはわずかの時間しか持続しない。

つらそうに見えるので手を貸したくなるが、その人は誰かのせいで辛いのではない。その人自身の認識の曖昧さによって辛いのだ、と今はそう思う。

他者の認識を変えることは難しい。人を変えようとするのと同じで、かなり難しいと思う。

自分の心の水タンクに穴が空いていることを知らない人は、自分が渇くたびに水泥棒を探そうとするのだ。